Project12 やり投げ警備員
4.ランナーたち
過去の記憶のなかに、ビジュアル的に鮮やかに残っている印象的なシーンがある。
そのうちのいくつかは、テレビで見た一場面だ。
※これまで、ずいぶん多くの時間をテレビを見て過ごしたと思う。
※その時間を他のことに有意義に使っていれば、もっと成功した人生だったと思う。
※でも、もしそうしていたら、確実に1回か2回は体を壊して入院していたでしょうね(僕は入院経験無し)。
※まあ、体がだらだら過ごしたいと言っているときは、それに従うことです。
午後の日差しの中、小柄なスポーツ刈りのマラソンランナーが大声援を受けて競技場に入って来る。
そのすぐ後ろに、長身のランナー二人が続いている。二人は長髪でメガネをかけた同じ顔をしている。
第33回福岡国際マラソン。競技場に入って来たのは、瀬古利彦と双子の宗兄弟(茂、猛)だ。
3人を正面から撮った画像のビジュアル的印象は強烈だった。
ちょうど水戸黄門と構図的には同じで、黄門様の位置の瀬古が、助さん・格さんのように宗兄弟を従えている形だ。
瀬古利彦の登場は、時代の変化を予感させた。なかなか外人に勝てなかったマラソン界に大きな希望をもたらした。
しかし、おそらく絶頂期であったであろう時期のモスクワ五輪を日本がボイコットするという不運に見舞われた。
それでも、瀬古は黙々と修行僧のように走り続け、勝ち続けた。
日本の陸上界も瀬古をエリートとして扱い、海外の大会へ積極的に派遣した。
そんな瀬古に真っ向から反発し、雑草のように這い上がってきたのが中山竹通だ。
中山は生きるため、生活するために走り続けた感がある。
瀬古の場合は中村清という名伯楽に見出されたが、中山は自ら走れる場所を探してさ迷い歩いた。
そして、優遇される瀬古に口撃を続けたが、これはすなわち日本陸連を口撃することに他ならない。
この2人のぶつかり合いがピークに達したのが、ソウル・オリンピックの選考会となる第41回福岡国際マラソンだ。
オリンピック行きをかけた瀬古、中山の直接対決に大いに盛りあがったが、直前の駅伝に出場した瀬古がけがをして欠場してしまう。
中山は「這ってでも出て来い!」と口撃し、自身は雨の中ぶっちぎりの1位で優勝しオリンピック行きを決めた。
(口撃の真相は「僕なら這ってでも出る」と言ったのをマスコミが歪曲して伝えたらしい)
2位の新宅雅也も文句なくオリンピック出場。問題は3番目の出場枠だ。
3位が外人(ヨルグ・ペーター)で4位が工藤一良。本来なら工藤で決まりのはずだが、陸連は瀬古の救済措置に出る。
翌年の、びわ湖毎日マラソンでの瀬古の成績を見てからと決定を先送りしたのだ。
瀬古は暑さに苦しみながらも、びわ湖毎日マラソンに優勝したがタイムは平凡で、すっきりしない決着だった。
そんな意地のぶつかりあいを尻目に、宗兄弟はゆうゆうとマラソンライフを楽しんでいるように見える。
瀬古をかなりライバル視したとも言われているが、あまり説得力がない。
いい仲間と、しっかりした組織。地元宮崎の太陽のような明るさが感じられる。
ある女子マラソン選手が、宗兄弟のいる旭化成に移籍し、彼らから「楽しく走ろうよ」と言われて救われたみたいな話を読んだことがある。
彼女はそれまで、心身共にストイックな練習を続けていたのだ。
たぶん、瀬古や中山のほうが不器用なんだと思う。生きかたがへたなんだと思う。
ちょっとうまくやれば、もっと豊かにもっと幸せになれるのに。でも、彼らにはあの生きかたしか出来ない。
これは、多くの人が自分を重ね合わせる部分だ。器用に立ち回れない自分と同じ物を彼らに感じてしまう。
人々が彼らを応援した気持ちの一部に、そんな不器用な彼らをいじらしく、愛しく思う心理があったかもしれない。
※でも、友達になるならやっぱり宗兄弟タイプの人のほうがいいなあ。楽しそうだし。
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